Trinity Tempo -トリニティテンポ- ストーリー



 ぶおぉ、ぶおぉ——
 合戦の火蓋が、たったいま切って落とされた。

「いやいやいやいや」

 盛大に話の腰を折る有瓜。葵がぎくりとするくらい挑発的にジェスチャーをしてみせた。
 勢いに水を差された二人が、不満いっぱいの顔で有瓜を促した。

「なんじゃ?」
「なんじゃももんじゃもあるか。いきなり壁を登れったって、いくらなんでも不親切すぎるだろ。こっちは初心者だぞ。せめて初歩の初歩くらい教えてくれなきゃ勝負にならないし、勝負にならなきゃ勝敗なんて付けらんねー。そうだろ葵?」
「そ、そうだね有瓜ちゃん……フリークライミングっていろんな道具を使いこなしたり、フォロー役の人と連携したりとか、教えてもらわないとよくわからないもんね」
「道具? フォロー? ますますわかんねー。こんなんじゃ試合になんねーなー!」
「駄々をこねても無駄じゃ。下準備も含めて試合じゃろう。のう三歳?」
「まともに考えればその通りだけど」

 石上は怪しげに有瓜を見つめていたが、やがて諦めた様子で自校の生徒に予備のハーネスを持ってくるよう指示をした。

「受け取れ。使い方をレクチャーする」
「お? なんだ、気前いいなお前」
「敗けた後で難癖を付けられても面倒だからね。道具くらいお安い御用だ」
「難癖なんてつけねー。何故なら私が勝つからな」
「問答する気はない。始めるぞ、聞いてなかったなんて通じないからな」

 石上が慣れた様子でハーネスの装着の仕方、ロープとカラビナの使い方などを説明するのを、葵は未経験者のふりをしながら確認した。説明に誤りはない。間違った知識をつけさせてミスを誘うような奸計ではないようだ。
 駆け足気味だが要点を押さえた、文句の付け所のない説明だった。

「——これがマルチピッチクライミングの要領だ。難しいだろ? 今からでも降参するなら受け入れるよ」
「馬鹿言え、楽勝だ。ビレイ? だっけ? ちょっと登ってみるから葵、下でロープ手繰れ」
「うん、有瓜ちゃん。気を付けてね!」

 壁に向かった有瓜が、岩肌の取っ掛かりをむんずと掴む。淀みない体重移動でひょいひょいと登る有瓜を、石上と後奈良は本当に初心者なのかと疑わしげに見つめていた。
 繋がったロープを送りながら、葵も地面から有瓜を見上げていた。
 まだハンガーもカラビナも使わずに自身の身体だけで登っているので、ロープは安全確保の役には立っていない。せめて邪魔にならないように気を配る葵と、いつ止まるのかと見上げている男が二人。
 見る間に有瓜の姿が小さくなっていく。このまま頂上まで登って行きそうな勢いだった。

(——法螺貝が鳴ったあと、だもんね)

 合戦は始まっているのだ。
 ようやく、まんまと出し抜かれたことに気付いた二人が色めき立った。

「卑怯だぞ長谷部有瓜!」
「無駄じゃ、聞こえとらんわい。我らも追うぞ三歳。——応援団、前に出ぇい!」
「押忍!」
「やむを得ん。本陣高校の健闘を祈って、エールを喰わせてやれい!」

 押忍! と呼応する生徒たち。石山本願寺附属高校の屈強な男子陣とブラスバンド用の洋太鼓が壁に向かって横一列で整列し、葵は何をするのかと訝った。
 有瓜の登る速度はかなり速い。一つ足を滑らせるだけで地上まで真っ逆さまの岩登りだが、安全確保を省略した分のスピードはかなりのものだ。
 心配だけで卒倒しそうになる。
 有瓜でなければ考えられない方法であり、有瓜以外は考えない方法だ。

(だから、出遅れた時点で勝ち目はないはず……)

 クライミングは一つ一つの手順をこそ大事にするスポーツで、それには当然時間がかかる。
 いまさら差を埋められるはずがなかった。
 整列した石山本願寺附属高校の生徒たち全員が、一直線に有瓜を見上げる。ぴたりと照準を合わせるようなその姿は、何故か、火薬をいっぱいに詰めた大砲を連想させた。

「フレー!」
「フレー!」
「ほ、ん、じん!」

 応援団の、シンクロした大音声が——
 まるで爆発のような突風を巻き起こし、葵を吹き飛ばした。
 掛け声が衝撃波となって放たれたと理解するまで多少の時間が必要だった。一歩半ほど宙に浮いて、着地した葵は信じられない気持ちで両足を踏ん張った。

「フレッフレッ本陣!」
「フレッフレッ本陣!」
「フレッフレッ長谷部!」
「フレッフレッ長谷部!」
「有瓜ちゃん——!」

 エールが放たれるたびに降りそそぐ小石に気づき、葵ははっと有瓜を見上げた。有瓜の周りに着弾した衝撃波が岩肌を削っている。どれほどの衝撃が届いているのか定かではないが、一見してわかるほどにスピードが落ちていた。
 うおお何だ何だ突風か!? と岩壁にしがみついて凌ぐ有瓜。

「有瓜ちゃん、落ち着いて! 無理しないで!」
「これぞ我らが応援弾。応援は力なり、じゃ」

 準備を終えた石上が岩肌に指を掛けた——と思ったや否や、見事な身軽さで壁を登って行く。ハンガーとカラビナを駆使して、危なげのない器用さで進む石上。それを後奈良がフォローして、ある程度まで登ると今度は後奈良が登るのを助ける。
 お手本のようなリードクライミング。無駄のない動きで素早く、そして着実に有瓜へと迫る。
 いまだ有瓜は衝撃波に翻弄されている。葵は切羽詰まって、本陣高校の応援団を振り返る。
 その中の一人に——やむを得ず、助けてくれと葵は合図を送った。
 次の瞬間、石山本願寺附属高校の応援団の足元から、突然に白煙が上がった。
 煙を吸い込んでしまった団員がむせ返る。咳き込まなかった団員も、白煙の中では大きく息を吸いづらい。
 エールが途絶えた。

「有瓜ちゃん!」
「小癪な。なら次の手じゃ。僧兵!」

 ビレイしながら後奈良が地上へと声を轟かせた。白煙のなか比叡山学園の生徒が前に出ると一斉に、真言を唱え始めた。

「ナマクサマンダバサラナン」
「センダマカロシャナソワタヤウンタラタカンマン」
「ナマクサマンダバサラナンセンダ——」

 比叡山学園の生徒たちが修行中に唱える真言は、悪を退散させ一切の煩悩や因縁を断ち切る不動明王に己の迷いを打ち砕いてほしいと願う言葉だ。この真言を唱えながらひたすらに歩き続ける学校行事を、年間100日はこなすという。
 雑念が立ち消え、思考と意識が自分の内側へと滑り落ちていくような錯覚のなか、葵は頭を強く振って自我を保った。
 不思議とよく通る念仏は、遥か高みにいる有瓜の手をも鈍らせる。いや、鈍らせたどころではなかった。
 極限状態で余計な考え事なんて、危険極まりない。

「!!」

 葵の遥か頭上で、有瓜が手を滑らせるのが見えた。
 落下する——

「有瓜ちゃん!!」

 空中に投げ出された有瓜が手を伸ばしたのは、岩肌に打ち付けられたハンガーの小さな取っ掛かりだった。
 指先をハンガーに触れさせるが掴みきれない。落下の速度をほんの少し緩めた程度だった。
 そのほんの少しが有瓜を助けた。
 葵は、有瓜が手当たり次第にハンガーや岩肌に向かって手足を伸ばすのを見た。ほんの少しの減速を何十回も繰り返すことで落下の衝撃を可能な限り減衰させている真下に、石山本願寺附属高校と比叡山学園の生徒たちが雪崩れ込んできた。
 全員で抱えているのは、送風式の巨大な救助マットだ。

「有瓜ちゃん、ここに!!」

 葵の声が聞こえたかどうか。
 最後の瞬間には壁を蹴って、有瓜はマットの中央に飛び込んだ。

「〜〜〜〜は————っ! あー、死ぬかと思った! 天守閣から落ちるよりヒヤッとしたぜ」
「有瓜ちゃん!」
「おう葵。なんで泣いてんだ?」
「だって、だって!」
「葵、私の下駄知らね? 途中で脱げたんだけど」
「下駄で登ってたの!?」
「いやいやそんなことより! さっき念仏が聞こえてきたんだよ! こんななんもないとこでだぜ、怖くね? つい眠くなっちまって手が滑ったわ」
「有瓜ちゃん〜〜〜〜!!」
「動けないって。抱きつくな、放せ。離れたら泣きやめ」

 頭上から後奈良の声が降ってきた。

「無事で何よりじゃわい」
「お前この野郎! 何だあれ! 卑怯だろ!」
「お主が口にするとなんともいえん気持ちがするの」
「ありゃれっきとした妨害行為だぜ。合戦無効だ無効!」
「どこがじゃ。よもや応援が反則などと言うつもりではなかろうな? 我らは全校一丸となって戦っておるんじゃ。独りで戦っておるお主には、ちと理解しがたいかもしれんがの」
「なんだと!」
「上で三歳がこう言うておる——無効にしても構わんそうじゃが、我らは同じ手を使うぞ。不意打ちができんようになったお主に勝ち目はあるのかとな。そら、じきに三歳が頂上に着く。それまでに決めねば逃げることもできんぞ」

 珍しく有瓜が憮然とする空気が伝わってきた。葵の頭の上で腕組みをして、苛立たしげに指の腹でとんとん叩いている。
 有瓜の脇腹に押し付けていた顔を上げて、葵は努めて冷静に思考した。
 一旦退いて再戦すべきだと思った。対策を練って、万全の状態で出直さなければ。
 逃げなければ勝機がないと、あらゆる状況が言っていた。

「…………」

 有瓜もそうとしか考えられないから苛立っているのだろう。

「有瓜ちゃん……」
「あー、今考えてるからちょっと待てって」

 葵が無力感を覚えるのは、こんなときだ。
 それでも葵には何もできない。——葵だけでなく、この場にいる本陣高校の誰も、有瓜を助けられない。
 有瓜は、有瓜だから。
 それほどに規格外の存在だと、誰もが知っているから。

「有瓜ちゃん。ここはいったん」
「だから」

 遮って、有瓜は諭すような口調で言った。

「考えてるから。ちょっと待ってろ」
「…………うん」

 取りつく島もなかった。
 葵やこの場の全員が、言葉を飲み込んだとき——

「あれー? もしかして有瓜ちゃん、困ってる?」

 場違いなほど普段通りの、明るい声が投げかけられた。
 一同が振り返った先には、栗色のくせっ毛をした小柄な女子。

「やっほー、有瓜ちゃん」

 一期桐栄が、ひらひらと手を振った。


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