Trinity Tempo -トリニティテンポ- ストーリー



「やっほー、有瓜ちゃん」

 偶然通りがかったといった程に何気なくやってきたのは、昨日生徒会室で有瓜と遊んでいた転校生だった。
 カラフルなパーカーにスニーカー、大きめの斜め掛けのバッグを提げ、人懐っこい笑顔を浮かべた小柄な上級生。
 名前は確か――

「一期先輩……?」

 呟きが聞こえたのか一期桐栄は葵にもにこにこと手を振りながら、有瓜の傍までやってきた。
 腕組みして石上と後奈良を見上げていた有瓜が返事した。

「よう桐栄」
「やっほー。なんか面白いことしてそうって思って来たんだけど、そうでもないっぽい? もしかして何か困ってる?」
「困ってるっつーか考え中っつーか。あそこにデカい奴らが二人いるだろ? あいつらと頂上まで競争中」
「そうなんだ。じゃあ早く登んないと」
「や、それがな? なんか向こうの応援団が邪魔してくんだよ。掛け声とか念仏とかで」
「聞かなきゃいいじゃん」
「そんなレベルじゃねーんだって! 掛け声が空気砲で、念仏が催眠音波で」
「あはは、なにそれ! 意味わかんなすぎ」
「い、一期先輩! いまは時間がなくて……ゆ、有瓜ちゃんの邪魔、しないでください」
「しがみついてる子に言われたくないなぁ」

 にこにことそう言われて、我に返った葵は有瓜から体を離した。
 桐栄は続けて言った。

「でも有瓜ちゃん、空気砲でも催眠音波でも、当たらなかったら意味ないよね」

 ほとんど反射的に葵は口を挟もうとしたが、その前に有瓜が返事をした。

「その通りだぜ。当たらなきゃどうってことはねー」
「有瓜ちゃんなら登りながらでも避けられるんじゃない?」
「どうやって」
「左右にこう、ジャンプしたりして」
「わははは、それいいな!」
「ゆ、有瓜ちゃん……! いまは冗談言ってる場合じゃ……」

 こうしている間にも石上と後奈良は着実に進んでいる。益体もない話に花を咲かせている場合ではなかった。
 葵にとっても周りの生徒会の面々にとっても、クライミングしながら反復横跳びをする話なんて冗談以外の何物でもなかった。

「冗談じゃないよね、有瓜ちゃん」
「ああ、冗談じゃねーな」

 だから続いた有瓜の言葉には耳を疑った。

「それじゃ、私達が勝つために――桐栄、お前に何ができるか言ってみろ」
「待ってました」

 全員の視線が刺さっても平気な顔で、桐栄はショルダーバッグから一つの紙箱を取り出した。
 蓋を開いて恭しく差し出しつつ、おどけた口調で言った。

「ここに取り出したるは一足の草履にございます。有瓜ちゃんにプレゼントすべく懐近くで温めておりました次第。有瓜ちゃんの足に合うといいんだけど」

 訝しげに見つめる葵とは反対に、有瓜は興味を惹かれたようだ。

「靴か? 変な形だな――クライミング用? まあ何でもいいや。これ使っていいのか?」
「どうぞどうぞ!」
「じゃ遠慮なく」
「ゆ――」

 葵が何かを言うより先に、有瓜はその靴に爪先を通していた。
 有瓜が言ったように、見慣れない形状をした靴だった。全体的にスリムな作りで、爪先と踵に特徴的な加工がされている。クライミングに特化したシューズだと葵は知識を掘り返して認識した。
 靴自体は見慣れなくても、箱に印刷されているメーカーロゴには見覚えがあった。葵が、と言うよりも生徒たちの多くが知っている、三神ホールディングスという近年成長著しい巨大企業のロゴだ。

「うおっ……なにこれすげー。急に身体が軽くなったぞ」
「もちろん、ウィッシュだもん」
「ウィッシュ?」
「もしかして有瓜ちゃん、ウィッシュ自体知らない?」
「馬鹿言え、知ってるぞ。知ってるけど説明しろ」
「はいはい、了解しました。『ウィングシューズ』って言って、履いたらめっちゃ動きやすくなる靴なんだよ」
「へえー!」
「いや、へーって言っちゃってるじゃん」

 桐栄があははと笑うと、つられて生徒たちも表情を崩す。
 不意に葵は、先ほどまで漂っていた雰囲気が吹き飛ばされていることに気づいた。

「履いたら空も飛べるらしいよ。知らないけど」
「マジか。信じらんねーけど信じちまったわ」
「お気に召していただけたご様子で」
「いやいや、使ってみないことには何とも言えねーな」

 有瓜は遥か頭上の石上と後奈良を見据えた。

「それじゃ、ちょっと試してくるとするか」
「はいはーい。頑張ってねー」

 有瓜が壁の先を見上げるのを、葵も一歩後ろから見つめていた。
 石上と後奈良は順調に手を進めたようで、もうほとんど頂上近くまで到達しているように見えた。
 追いつけるはずがない距離。早々に諦めてしまっていただろう。

(有瓜ちゃんじゃなかったら)

 有瓜がここにいなかったら、諦めないなんてきっと思いつきもしなかった。

「有瓜ちゃん――頑張って!」
「おう!」

 葵に力強く返事をすると――
 両足に力を溜めて、有瓜は垂直に跳びあがった。
 それだけで軽々と全員の頭の高さを越えると、岩肌を蹴ってさらに上へ。
 そこから怒涛の壁登りが始まった。
 羽根が生えたような軽やかさで壁を登っていく。実際には違うのだろうが、葵のいる地上からは有瓜が爪先だけで駆けあがっているかのように見えた。
 常識外れという言葉でも足りない。相手校はもちろん、身内すら大口を開けて呆けるしかないような。
 じわじわと、興奮を自覚する。

「……すっごいや」

 同じように呆気にとられて見上げていた桐栄が、頬を上気させて言った。

「やっぱり、有瓜ちゃんしかいない!」

 何のことか、葵が訊こうとしたそのとき、石山本願寺附属高校の応援団から放たれた衝撃波が有瓜に襲い掛かった。危ないと思った次の瞬間には、有瓜は反復横跳びのように左右に行ったり来たりしてそれをかわしていた。桐栄を含む本陣高校から大きな歓声が上がった。

「ウィングシューズ――翼を授ける靴、ですか」

 独り言のつもりだったが、あっけらかんと応えたのは桐栄だった。

「いや、そんなわけないじゃん。ウィッシュはすごいけど所詮ただの靴。だからあれはあくまで有瓜ちゃんの実力だよ」
「そ、そうなんですか。さすが有瓜ちゃん」
「有瓜ちゃんを引き入れれば、優勝間違いなしだ」
「……何の話ですか?」
「まだ秘密」

 そのにこにこした笑顔に、葵は不意に不安を覚える。
 そういえば、桐栄はどうしてここにやってきたのだろうか。
 偶然などでは有り得ない。有瓜にぴったりのウィッシュを持って来ていたのだから。

「有瓜ちゃん、がんばれー!」

 桐栄が有瓜に向かって声援を投げた。はっとして葵が見上げると、有瓜が後奈良を追い抜いたところだった。
 再度のエール。続いて本陣高校の面々も葵も応援の声を張り上げた。
 石上に追いつくまで、あと少し。
 怒涛の勢いの有瓜を、石上は頂上近くで悠然と待ち構えていた、のではない。最後にして最大の難所にさしかかり、慎重に慎重を重ねて進んでいたのだった。

(あれが最大の難所――鷹の口ばし岩!)

 頂上近くで、カタカナの『ワ』の形で下に向かって突き出している大きな岩だ。それがネズミ返しのように行く手を邪魔して、順調だった石上のスピードを著しく低下させていた。
 石上は天井にぴったり貼りついて進んでいる。ルーフやトンネルと呼ばれる形状の岩を進むには、通常のクライミングとは全く違う技術と筋肉が必要になるという。ましてや目の眩むような高所だ――どれほどの恐怖だろうかなんて、想像もしたくない。
 石上は一歩一歩、着実に進んでいく。
 ロープで安全確保しながら、一時も手を休めずに進んでいく。
 そのルーフの開始点に有瓜が追い付いた。

「有瓜ちゃん……!」

 祈りよ届けと、葵は両手を握りしめた。
 猛烈なスピードから一転、有瓜はその場で動きを止めた。ハンガーに体重を預けて手を休めているのか、ここからの進み方を考えているのか、あるいはまさかトラブルかと地上の全員が訝しむなか、有瓜はしばしの間停止していた。
 視線は水平位置の、まっすぐ前を見据えている。
 進むべきルートである頭上ではなく、何もない空間を挟んだ向こう。
 数メートル先の、下を向いて伸びる口ばし岩の先端を。
 葵は叫んだ。

「有瓜ちゃん、だめ――――!」

 有瓜は――
 掴んでいた壁から両手を離し、バネのように折り畳んだ両足で、岩肌を蹴りつけた。
 反対の壁に向かって、全力でジャンプした。
 石上が信じられない様子で振り仰ぐのが見えた。葵の近くにいた生徒が悲鳴を上げるのが聞こえた。救助マットを準備していた生徒が息をのんで身構えたのがわかった。
 有瓜はまっすぐ前に向かって跳んだ。
 ウィッシュの性能の限界を振り切って、目前の壁の凹凸めがけて、両手を最大に伸ばして、猛烈な勢いで空中を駆けた。
 翼が生えたように空を飛んだ。
 普段の有瓜の跳躍距離を大きく越えるジャンプだった。
 しかし、届かない。
 真下には何もない。

「有瓜ちゃん――!!」
「応援団――!」

 後奈良の指示で応援団が動くよりも先に、一陣の風が巻き起こって有瓜を押し上げた。
 風に持ち上げられて跳躍距離が伸びた。思いっきり伸ばした指が対面の壁の凹凸に触れ、勢いをそのままに、有瓜は身体を安定させた。
 『地上に広がる森を見下ろしたら突風が吹くタイミングが読めたし、跳ぶ前にちゃんと命綱を結んでいた』とは後で聞いた話だが、ジャンプが成功したことで順位は逆転した。石上に向かってピースサインをする有瓜が見えた。おそらく相手は苦い表情をしていただろう。
 勝敗は既に決した。
 そこから有瓜が口ばし岩をクリアするまで大した時間はかからなかった。頂上に登りついて、顔だけ覗かせて葵たちにおーいと手を振った。

「やったぜー!」
「おめでとう有瓜ちゃん! 信じてたよ!」

 誰もが胸を撫で下ろし、有瓜へ手を振ったり大声で呼びかけたりと賑やかだ。ほっとしたのか涙を零す生徒もいたりして、葵も指先で目じりを拭った。
 絶望的なところからの逆転勝利、やっぱり有瓜はすごかった――がしかし、今回はもうひとり功労者がいたはずだ。
 葵は、輪から離れるように歩き出す桐栄に気が付いた。
 呼び止めると、気分よさげに桐栄は振り向いた。頬を上気させて、興奮冷めやらぬといった表情だった。
 それが、まるで面白い映画を観終わった後のようだったのが少し気になった。
 ここまで自分から関わっておきながら、勝ち負けなんてどっちでもよかったと思っているような――微かな違和感があった。

「……一期先輩、お帰りですか?」
「うん。有瓜ちゃんによろしく言っといてくれたら嬉しいな」
「わかりました」
「あとこれはよかったら。有瓜ちゃんのこと、もっと好きになっちゃったって。それじゃね」
「――――」

 葵が言葉を失っている間に、桐栄はひらひらと手を振って、現れたときと同じくあっさりと去って行った。
 一人の女生徒が、本陣高校の輪からそっと離れて葵の側にやってきて、葵にだけ聞こえる声で囁いた。

「追いますか?」

 合戦中、葵の合図で煙玉を投げた生徒だった。
 本陣高校生徒会の中に潜り込んでいる、正宗の分家の人間だ。葵の手駒として本家から寄越された間者で、頼れば本家に借りを作ることになる。
 他の生徒に気づかれないように小声で返答する。

「無用です……下がってください」
「御意」

 そこで女生徒は顔を上げて、葵を見つめた。

「葵様、距離はあれど会長の視界の内。そう強張った顔をされては余計な詮索を招きます」
「……だったら話しかけないでください」

 目を合わせずに言うが、女生徒は顔色を変えもせず、目礼をして生徒会の輪に戻っていった。
 様々な感情がない交ぜになって――大きくは罪悪感のせいで有瓜を見上げることができなくて、葵はしばらくの間、涙を拭っているふりをした。


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