Trinity Tempo -トリニティテンポ- ストーリー



 いつもよりしっかりとウォームアップの時間を取ったのは、万一の怪我を恐れたからだ。
 桜映はその間も待ちきれないように、しきりにうずうずと体を揺らしていた。いつも以上に踊りたくてたまらないようだった。
 そんな桜映にどこか違和感を覚えながらすみれたちが見守る中、桜映のパートから練習が始まった。

「それじゃ、行くよ!」

 途端、香蓮とすみれが驚いて顔を見合わせた。
 桜映の動きのキレが、昨日と比べて断然良くなっていた。
 タイミングが合わず詰まっていたフレーズも危なげなくこなす。まるで夜通し自主練してきた後のような、満点に近い動きだった。

「桜映、その調子!」

 思わず見入りそうになりながら、手でリズムを取るすみれ。
 振付は山場を越えて、もう難度の高い部分は残っていない。桜映は余裕すら垣間見せつつラストまで踊りきり――目を輝かせて、すみれたちを振り返った。

「できた!!」
「すごいわ桜映!」
「やったねさえちー!」
「えへへ! もう一回見ててくれる?」

 促されるまま、今度は曲を流して合わせてみると、先ほどの出来がまぐれではないことがわかった。
 つられて香蓮も振付を合わせ始める。すみれもいつの間にか自分の振付を思い描いて身体を揺らしていた。
 曲が終わる頃には、イメージの中で三人一緒に振付を合わせたような、そんな一体感があった。
 二人とも早く踊りたくてうずうずしていた。

「どうかな、すみれちゃん!」
「ええ――びっくりした。すっごくよかったわ」
「えへへへ、昨日蒼牙のダンス動画を見てて、なりきってイメージトレーニングしてみたんだ! 蒼牙みたいに堂々と踊ってみたらいいんだって!」
「それは……桜映が言うほど簡単なことじゃないと思うんだけれど。でも効果あったみたいね」
「集中したときのさえちーってほんとにすごいよね! さえちーさえちー、次はかれんのも見てて!」
「うん!」

 香蓮も、桜映に影響されたのか、活き活きと踊れていた。表情が輝くたびに隣で桜映が歓声を上げた。
 最後まで見守っていたがこちらも危なげなところはない。これまで見た香蓮のダンスで、一番良かったとすみれは思った。

「どう、どう? かれん、うまくできてた?」
「ええ、ばっちりよ! 昨日の今日なのに、一体どうしたの?」
「えへへ、かれんも自分でびっくりだよ! さえちーのダンスから元気をもらったからかなぁ」
「香蓮ってば褒めすぎだよ。てへへへ……。次はすみれちゃんだね!」
「わかったわ。いつでも大丈夫」
「おっけー!」

 自分で頬が上気しているのがわかるほど、楽しい。
 いけないいけない――頬を押さえて、すみれは曲の出だしに集中した。
 ふと気づけば、窓の外を大粒の雨が叩いていた。
 ざあざあと空が泣いている。少しクールダウンした頭が、濡れずに外を歩くのは難しそうだなと考えていた。

「あれー?」

 プレーヤーを操作していた桜映が声を上げた。

「どうしようすみれちゃん、動かなくなっちゃった! こ、壊れちゃった?」
「壊れたって、桜映のプレーヤーじゃない。どうして私に言うのよ……。ほら、見せてみて」
「ほんとだ。画面消えちゃってるねぇ」
「私も詳しくないけど……電池切れじゃないかしら、多分。桜映、充電ケーブル貸してちょうだい」
「――あー、えへへへへ。忘れちゃったみたい」
「こらさえちー」
「えへへへ、ごめーん!」

 両手を合わせる桜映に、そういうときもあるわよと苦笑するすみれ。
 だいぶ落ち着きを取り戻したことも手伝って、あまり無理をさせずにいようと決めていたことを思いだす。
 ちょうどいいタイミングだ。

「――それじゃあ。曲はないけど、各自リズムを取りながら、もう一度自分の振付をおさらいしましょう。それを一時間こなしたら、ストレッチして今日はおしまい。いい?」
「せっかくの練習時間だしもったいないよ。そうだ、もしかして東先生が同じもの持ってたりしないかな? ちょっと訊いてくるね!」

 すみれはまさか異論が出ると思っていなかった。
 訝しげな二人をよそに桜映は扉の向こうに消えていった。
 香蓮とすみれが首をかしげているうちに、手ぶらの桜映が戻ってきた。

「あたし、家まで取りに行ってくる! 香蓮もすみれちゃんもちょっと待っててね」
「桜映、そこまでしなくていいわ。忘れたのは仕方ないじゃない」
「そうだよさえちー、どうしたの? こらって言ったの、もしかして気にしてる?」
「ううん、そうじゃなくって。関東大会までもうすぐでしょ? あたしも香蓮もばっちりでせっかく三人で上手く合わせられそうなのに、あたしのせいで出来ないなんてもったいなくて」
「そういうときもあるわよ。だからいま個人練習をしっかりやって、週明けに合わせればいいじゃない」
「週明けって、二日後だよ。二日間も前に進めないんだよ?」
「さえちー?」
「あたしたちには時間がないんだよ」

 すみれや香蓮に向かってというより、自分に言い聞かせるかのように桜映は呟いた。
 言葉に詰まって、すみれは桜映の様子をまじまじと見つめた。付き合いの長い香蓮ですら心配そうな視線を向けている。

「桜映、落ち着いて。どうしてそんなに慌てているの?」
「どうしてなんて――」

 驚いたように桜映が顔を上げた。険しい視線だったのを、ばつが悪そうに伏せた。
 ぽつりぽつりとこぼすように口を開いた。

「ステラ・エトワールの県大会の映像、みんなで観たでしょ。――惺麗ちゃん達だって、こないだよりもっともっと上手になってた。新しい曲と振付もきっと始めてると思う。そう思ったら――」

 そう思ったら。
 苦々しく蘇る、聖シュテルン女学院の練習試合。

「このままじゃ追いつけなくなっちゃう。ううん、もしかしたらもう……」
「不安なのは、みんな一緒よ?」
「……そうなのかな」

 拗ねるような物言いに、すみれは少なからずムッとした。
 間に入って香蓮が二人へ一歩近づく。

「さえちーががんばってることは知ってるよ。でも無茶はだめだよ」
「無茶なんてしてない」
「でも……」

 香蓮の視線が、ちらりと足元を向いた。気付いた桜映がはっとして、隠すように左足を下げた。

「桜映? 足がどうかしたの?」

 なんでもないと言う桜映の前にしゃがみ込んで、すみれは足に手を添えた。
 その途端、眉をしかめる桜映。
 練習着の裾をまくると、すねの一部が青くなっていた。桜映はごまかすように笑いながら、頬を掻いた。

「ぶつけたの?」
「――昨日の夜、家でちょっと」
「蒼牙の動画見て、そのまま練習を?」
「……だって、早く完成させないと。次にいけないから」
「――――」

 すみれは大きく息を吸って、吐きながら言葉を選んだ。

「……とにかく冷やさないと。保健室に行きましょう」
「平気だよ! 全然大丈夫だから」
「良くないわ。痕が残ったら」
「平気だってば!」
「わがまま言わないの」
「言ってない!」
「言ってるわ!」

 桜映は一瞬気圧されて、それでもぐっとすみれに近づいて言った。

「だってあたしはリーダーだもん! 絶対皆でトリニティカップに行くの。だから足を引っ張っぱらないよう皆より練習しなきゃいけないの!」
「だからって怪我をするような練習は良くないわ。大きな事故に繋がるかもしれないのよ」
「そんなのんびりしてられないよ。すみれちゃんにも香蓮にも迷惑掛けちゃうでしょ。そんなのイヤだもん! すみれちゃんはダンス上手だから、いいよね!」
「良くないわ。良いわけないでしょ。心配して何が悪いのよ! 桜映の言ってることは、勝手だわ!」
「勝手だもん! あたしの練習不足をあたしが取り返そうとして、そんなのあたしの勝手でしょ」

 すみれだって一人で出場するコンクールならそうしてきた。納得するまで練習した経験があるから桜映の言い分は胸に刺さる。
 自分は怪我しない程度を見定めることができるが桜映には無理だろうというのは、つまり桜映を信じていないということだ。
 まるっきり心配の押しつけで、自分が嫌になる。
 しかし、それがすみれの役目だと思い込んでいた。

「すみれちゃんっていつも落ち着いてるし、ダンス上手だし頭いいし。ほんっと羨ましいよね!」
「桜映だって明るくて努力家で可愛くて、私にないものをたくさん持ってるわ。羨ましいのは私の方よ」
「だったらちょっと練習しすぎるくらい許してくれてもいいじゃない」
「良くないわ。落ち着いて考えたら、怪我をしないようにするのが大事だって分かるでしょ」
「分かんないよ! 頑張って出来るようになるのがどうしていけないの!」
「やり方が良くないって言ってるの。私も香蓮も心配しちゃいけないの? 違うでしょう?」
「わからずや!」
「いじっぱり!」
「二人とも、まってまって!」

 割って入った香蓮に背を向けて、桜映は鞄を引っ掴んで扉を開けた。

「桜映!」
「さえちー!」

 聞こえないふりで振り返って言った。

「わからずや!」

 きちんと扉を閉めて桜映は練習室から出て行った。
 慌てて追いかけたが、桜映の姿は廊下の角の向こうに消えてしまっていた。

「私、探してくるわ!」
「かれんも!」

 急いで昇降口まで駆け下りたが、すでに桜映の靴は下駄箱に残っていなかった。
 叩きつけるような雨の中へ飛び出そうとしたすみれを、香蓮が引き留めた。

「傘もないのに風邪引いちゃうよ。すみれちゃんまで身体こわしちゃう。ね? さえちー、おうちへ帰ったんじゃないかな。行ってみよ?」
「そうね――」

 勢いをつけた雨粒がコンクリートに跳ねて白く煙る、その景色にすみれは目を凝らした。遮られた視界の中に桜映の姿が少しでも見えたなら、香蓮を振り切って走り出していたのに。
 しかしその甲斐もないまま、すみれは練習室へと踵を返した。

***

 インターホンを鳴らすが応答はない。
 見上げると桜映の部屋に電気が灯っている。帰っていることに安堵して、もう一度呼び鈴を鳴らした。
 応答はなかったが、代わりに香蓮とすみれの携帯が同時に震えた。桜映とのグループチャットに、メッセージが届いていた。

『あたしは大丈夫だよ。今日はひとりで練習するね』

 カーテンの引かれた窓を見上げる。呼び出しをあきらめて、返信を打ち込んだ。

『わかったわ。怪我に気を付けて、無理しないでね』
『また連絡するね、さえちー』

 桜映の家から帰る途中、別れ際に香蓮が言った。

「あんなさえちー初めて見た」

 香蓮自身もショックだったのか、心なしか弱々しく笑顔を作っていた。

「さえちーっていままで委員長とか、リーダーみたいなことやったことなかったと思う。だから頑張りすぎちゃったんじゃないかな。かれん、友達なのにわかってあげられてなかったよ」
「私もよ。――私、桜映のことリーダーとして見てたのかなって。『ダンスの基本は私が教えてあげる』なんて言って、先生気取りだったのかも知れない。バレエだって教わる方で、誰かに教えたことなんてなかったのにね」
「すみれちゃんは、どうしてバレエをやめちゃったの?」
「……よく考えてもわからないの。なんとなく、っていうのが一番しっくりくるわ」

 香蓮がうなずく。すみれは、でも、と続ける。

「いま踊ってる理由はわかる。桜映と香蓮と一緒にダンスするのが、とっても楽しいからよ」
「――香蓮もそう思う!」

 微笑む香蓮に手を振って、すみれは帰り道を進んだ。
 傘の向こうの雨はやまないが、目の前はいくらかひらけた気がした。
 こんなに誰かに向かって、自分自身をぶつけたことがあっただろうか。
 桜映も香蓮もすみれにとって特別な存在なのだと、改めて気づいた気がした。

「やっぱり直接、謝らなきゃ」

 どう言ったら伝わるだろう。
 なかなか答えの出ない問いに、すみれは頭を巡らせた。

***

 ――月曜日。
 しかし、桜映は練習に姿を見せなかった。



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